HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲4 Zimmer

2 ここはどこ?


「美樹、お弁当を買って来たから食べなさい」
彼女の両親が来て言った。
「今はいいわ。食べたくないの」
「無理にでも食べないと体がもたんぞ」
父も言った。
「でも……」
「今日は家に戻ってゆっくりベッドで寝たらいいわ。彼のことはお母さんたちが見ててあげるから……」
「いいの。ここにいる」
二人は困ったように顔を見合わせる。

「そうそう。ご近所の方達が心配なさってお見舞いに来たいって言われたのだけれど、丁重にお断りしておいたの。だってほら、まだこんな状態だし……」
「うん。そう言ってもらえると助かるわ。彼のこんな姿を白神さんたちには見せたくないの。それに、ウィッグもなしじゃ、怪しまれるかもしれないし……」
「それとね、猫達も元気よ。あちこち走り回ったり、柱で爪とぎしちゃって大変なのよ」
母が明るく言った。
「ありがとう。面倒見てもらっちゃって……。ほんと助かる。でも、あの子達って、今一番可愛いときなのにね。早く退院出来ないとすぐに大きくなっちゃうから……」
「そうだな。ああ。それと、編集の人から電話があったぞ。八重洲君とか言ったかな。そういう事情ならば1週間は待ってくれるそうだ」
「そう。よかった」
八重洲は増野の会社の編集者で、彼女が昔書いていた同人誌を出版させて欲しいと交渉して来た人物だった。彼女にそれを断る道理はなかったので承諾したのだった。

「ずっとここにいる。彼の傍に……」
それでも、前から連載していた雑誌の締め切りは待ってくれない。彼女はノートパソコンを持ち込んで書こうとしたが、どうしても書き進めることが出来なかった。画面を閉じようとした時、アニメーションの小さな魚が、モニターの中を水平に泳いで行った。
「ジョン……」
――「ハンスはどう? 君も体を休めないと駄目だよ」
魚の口から吹き出しが現れて文字が浮かぶ。
「彼はまだ目覚めないの。わたしは大丈夫よ」
彼女がキーボードを打って答える。
――「無理は禁物だよ」
「宮坂高校の人達がお見舞いに来てくれたのよ。例の目撃者の子と一緒に……。その子が言うには、何か光る物が見えたって……。ガラスのように一瞬だけ強く光ったって言うのよ。何かヒントになる?」
――「もちろんだよ。ありがとう」
「その時、看護師が部屋のドアをノックした。美樹は急いで魚のジョンに別れを告げるとドアを開けた。
「ドクターからお話があるそうです。ちょっと医局の方へいらしていただけますか?」
「はい。すぐに伺います」
そう言うと、彼女は名残惜しそうに部屋を出て行った。

廊下では、看護師達が忙しそうに行き交っていた。松葉杖の患者や病室の前に待機しているストレッチャーなどを避けながら一人の男が歩いて来た。それは黒い和装の男だった。すれ違った看護師の一人が振り向いたが、そこにはもうその男の影はなかった。
「お労しい……」
病室に入った庵は、そっとカーテンを手で引くと、眠っているハンスを見て呟いた。
「けれども、黒髪のあなたは素敵です。まさしく美羽様と瓜二つのお顔をなさっている」
庵はベッドに近づくと、ハンスの髪を手で梳いた。
「それにしても、あなたは実に強運の持ち主だ。あの怪物と遭遇して命を落とさずに戻って来れたのですからね。いや、梳名の血を継ぐ者ならば、当然と言った方がよろしいでしょうか」
庵は彼の手を取ると、静かに言った。
「何もかもわかっていますよ。だから、目を開いて私をごらんなさい。身を委ねるのです。風の袂へ……。私の中に……」

その時、用事を済ませた美樹が部屋に戻って来た。ベッドを囲っていたカーテンが少し開いている。
「茅葺先生……」
背筋に走った冷たさに、思わず足が竦んだ。
「そこで一体何をなさっていたんです?」
「何を……? 私はただ、お見舞いに寄らせてもらっただけですよ」
庵が振り向く。
「でも、どうしてここに入院してるとおわかりになったのですか?」
「私にはわかるのです。彼とは絆を結んでいますので……」
「絆?」
意味を図りかねた。その男の手に握られている物の重さを……。
「ええ。彼が生まれる前から、私達は闇の風で結ばれているのですよ。美羽様を通じて……」
「だったら、彼の身に何が起きたのかもご存知なのですね?」
「ええ」
庵が頷く。
「では、教えてください。一体何があったのですか?」
「一つ目の巨人が来たのです」
「伝説の?」
「そうです。だから、気をつけなさい。そう彼の仲間達にも忠告しておあげなさい。でも、恐らくはもう、必要のない忠告かもしれませんが……」
微風が静かに部屋の中を通り過ぎた。

「どういうことですか?」
「言葉通りの意味ですよ。他意はありません」
「でも……」

――来週、脳神経外科の権威である矢田部先生がいらっしゃいます。その診断を仰がれては如何でしょう?

つまり、この病院ではもう打つ手がないと宣告されたのだ。しかし、今目の前にいる男は、まだ希望があるかのような言い回しをした。
「では、あなたにはわかるのですか? ハンスが助かるのかどうか」
「あなたにもおわかりなのでしょう?」
「それは……助かって欲しいと思っています」
一瞬だけ目を伏せて彼女は言った。
「では、助かります」
「でも……」
風が吹き抜けて行った。何色にも染まらない透明な風が……。闇は凝縮していた。男の衣と閉じたままのハンスの瞳の奥に……。

「それは、単に命がということではなく、ちゃんと意識が戻るということなんですか?」
「他に何があると?」
「いえ、ただ確認しておきたかっただけです」
得体の知れないその男の姿に、美樹は畏怖を覚えた。しかし、男の言葉には妙な重さと真実味があった。その彼が言うのであれば、信じられるような気がした。ハンスは必ず戻って来ると……。
「あなたも能力者なんですか?」
美樹が躊躇いがちに言う。
「今更それを訊いてどうされるのですか?」
「今更って……」
「どうやら、あなたはお疲れのようですね。少し休まれたら如何です? 身が持ちませんよ」
「そう言うあなたは休まれるのですか?」
庵はようやくベッドから離れると白い床の上を僅かに動いた。
「面白い質問です。人は休むから働くのか。働くから休むのか。なかなか興味深い問いかけです」
「それで、あなたの答えは?」
「私は常に循環し、流れているのです」
「それってもはや人間でないものなのでは?」
「そうお思いですか?」
気配さえ感じさせずに近づくと、庵はいきなり彼女の頬に両手を当てて微笑した。それは、あたたかい血の通った人間の手だった。

「ごめんなさい。わたし……」
「いいえ。私の方こそ失礼しました。でも、あなたがおっしゃっていることは半分正解で、半分は不正解です」
「どういう意味ですか?」
静寂の中で空調の切り替わる音が微かに響く。
「闇の風もたまには触れ合いを求めたいのですよ。これ以上、私がここに留まっていると彼がいやがるので、早々に退散することにしましょう。それと、私と面会したいなら、大学を通じてコンタクトしてくださいとご友人にお伝えください。それでは、どうぞお大事に」
敵か味方か判然としない男だった。が、今は眠っているハンスに危害を加えるつもりはないらしい。そして、美樹や他の仲間達にも……。それだけは信じられた。


1週間が過ぎても、ハンスの状態は変わらなかった。脳神経外科の矢田部の診察を受けたが、結果は思わしくなかった。それでも、美樹は諦めなかった。2時間毎の体位変換とマッサージを毎日続けた。刺激を与えるために、様々なことを話して聞かせた。少しの変化も見逃すまいと一日中、彼に寄り添って過ごした。
「でもね、あなたが参ってしまったら何にもならないのよ」
そういう母親の説得も聞かず、彼女は彼の傍から離れようとしなかった。
「じゃあ、ハンスとあなたの着替え、ここに置いておくわね」
母はそう言うと病室から出て行った。

夕方にはルドルフが来て、容態を訊いた。
「あまり良くないの。来週には終末期医療の病院へ移った方がいいと言われた」
肩を落として彼女は言った。
「大丈夫だ。前にも2週間意識が戻らなかったことがある。心臓が止まったのも一度や二度ではない。今日でまだ9日だからな。希望は十分にある」
「そうね」
美樹が頷く。そこへノックの音がして、飴井が入って来た。
そして、一通りハンスの状態を訊いたあとで言った。
「ところで、庭に十字架を立てたのはハンスなのか?」
「ええ」
「こんな時期に不吉だからと言って一平が抜こうとしたら、下にナイフが埋まってたんだ。それもやつが埋めたのか?」
「ナイフ?」
二人が同時に飴井を見た。
「確かにあのお墓を立てたのは彼よ。けど、ナイフのことは知らないわ」

「プレートには吹雪とだけ書いてあったが……」
「それは、ハンスに頼まれてわたしが書いたの」
「吹雪というのは、ハンスが関与した事件の容疑者の名前だ」
美樹に続いてルドルフも口を添える。
「名前か。変わってるな」
飴井は訝しそうに眉を寄せた。
「藤ノ花高校の生徒だったらしいが、名簿から削除されてしまっている曰くつきの名前だ。もっともそれについては今、ジョンが探っている筈だ」
「藤ノ花か……」
飴井は何かを試案するように遠くを見た。
「だが、ナイフの件は初耳だ」
「ねえ、屋上で光ったのって、そのナイフだったんじゃない?」
美樹が言った。

「可能性としては考えられるが、ならば、なぜわざわざ庭にそれを埋める必要がある?」
飴井が考えながら言う。
「そうね。やっぱりハンスが埋めたのかしら?」
「それは、やつが目覚めればわかる」
ルドルフは淡々としていた。
「目を覚ませばね」
宙を見ながら飴井が頷く。
「だが、場合によってはもっと恐ろしい光もある。ナイフよりも確実に能力者を殺す三日月の光が……」
僅かに眉を寄せてルドルフが言った。
「何なの? それは」
彼女が訊いた。
「サイクロプス……」
発した言葉が皆の心に重く沈んだ。
「それって、もしかして茅葺先生が言っていた一つ目の巨人? それって人なの?」
思い出したように美樹が訊いた。
「誰もその正体を知る者はいない。何しろ遭遇した者で生き延びた人間がいないのだからな」
(見つめてはいけない一つ目の……人を食う怪物)
美樹は昔見た禍々しい絵を思い浮かべてぞっとした。


「サイクロプス……!」
制御されたコンピュータの前でそう呟いたのはジョンだった。
「何?」
集めた情報をファイリングしていたリンダが訊いた。
「金で雇われて能力者を殺す殺し屋さ」
淡いモニターの画面の色が反射して、彼の顔色は青ざめて見えた。
「ハンスを襲ったのが、そいつだと言うの?」
「恐らく……」
「何故わかるの?」
「ダークウエブでも最も深い階層に巣喰っているロシアのサイクロプス。その男が最近、日本に入国した形跡がある」
「ダークウェブ? 一般の人の目には触れない闇のコンピュータ・ネットワークのことね。じゃあ、そいつの足取りをトレースすれば」
「いや、奴はもうすでに日本を出国している」
「目的は果たしたということかしら? でも、もしその標的がハンスだったとしたら、作戦は完全に失敗よね」
リンダが軽く肩を窄めて言った。
「問題は、誰がその巨人を引き入れたのかだ」


2週間が過ぎた。が、ハンスの状態は変わらず、明日には別の病院へ転院することが決まっていた。その病院は山間の静かな場所にあったが、美樹の家からは随分離れているため、毎日通うのは難しそうだった。

――そこなら設備も整っていますし、専門病院ですから、最後まで安心して任せられると思いますよ

「いやよ。あなたをそんな所にやりたくない……!」
美樹は彼の体を抱き締めて言った。最後までという言葉に心が強く反発した。
「きっと良くなるのに……」
彼の手は少し冷えていた。美樹は筋肉の拘縮を防ぐためのマッサージを始めた。
「お母さんがね、新しいパジャマ買って来てくれたんだよ。ハンスが好きなウサギさんが付いてるやつ。あとで着替えさせてあげるね」
彼女は懸命に話し続けた。
「ルドが言ったの。あなたは不死鳥のように何度でも蘇るって……。それに茅葺先生だってわたしが信じている限り、きっと助かるって言ったのよ。だから、大丈夫。ちゃんとあなたを家に連れて帰る」
ふと見ると、目の淵に涙が滲んでいた。
「ハンス、悲しいの? それともどこか痛いの?」
尋ねても彼は何も言わなかった。美樹はお湯で濡らしたタオルで、その顔をそっと拭いてやった。それから、手と、大切な指の一本一本を丁寧に拭く。と、微かにその指の先が震えた。
「ハンス……?」
思わずじっと見つめる。その表情は変わらなかった。が、確かに指の先が動くのを見た。

「ハンス、気がついたの?」
その声に反応して微かに睫毛が震えた。
「ハンス!」
頬が痙攣したように震え、それから、唇が微かに動いた。
そして、ついに彼は目を開けた。はじめはぼんやりと、それから二、三度瞬きし、ゆっくりと周囲を見回している。そして、言葉を発した。

「Wo bin ich? (ここ、どこなの?)」
そう言うと彼は半身を起そうとした。
「駄目よ。そんな急に起きたりしては……」
美樹は慌てて彼の身体を押さえるとそっとベッドに寝かせた。彼はそんな彼女を見つめて訊いた。
「Wer? (誰なの?)」
「よかった。本当に気がついたのね」
美樹は安堵し、彼の手を取った。が、当の彼はきょろきょろと辺りを見回して叫んだ。

「Wo ist meine Mutti? (母様はどこ?)」
「ハンス?」
何かが妙だと美樹は感じた。そんな彼女をじっと見つめて彼は言った。
「Hans? Nein. Ich bin Ludwig. (ハンス? ちがう。ぼくはルートヴィヒだよ)」
「ルートヴィヒ?」
「Ja. (うん)」
彼は頷くとさらに周囲を見回し、それからまた美紀を見て尋ねた。
「Wer sind Sie? (あなた、誰?)」
「わたしは……美樹よ。M・I・K・I」
「Miki?」
「そうよ。どうしたの? 日本語忘れてしまったの?」

「Japanisch? (日本語?)」
「そうよ。ここは日本なのよ。わかる?」
彼は首を傾げる。
「ここは病院なの。あなたは怪我をして入院してるのよ」
「Krankenhaus? (病院?)」
彼は納得がいかなそうな顔でじっと彼女を見つめた。美樹もまた戸惑っていた。すると彼は毛布を引っ張り上げると顔を埋めて泣き出した。
「Mutti... (母様)」

奇跡は起きた。だが、彼の記憶は混乱していた。
「ハンス。気がついたのか?」
そこにノックの音がして、ルドルフが入って来た。が、彼が近づくとハンスは慌てて毛布の中に顔を隠した。
「どうしたんだ?」
怪訝な顔のルドルフに美樹が説明する。
「それが……。変なのよ。目が覚めてからちっとも日本語を話してくれないし、自分の名前は、ルートヴィヒだって言うのよ」
「ルートヴィヒだって?」
渋い表情でルドルフが言う。それは彼の子どもの頃の名前だった。二人の胸に、ある一つの考えが去来した。

「顔を出すんだ」
ルドルフが言った。すると彼はそっと毛布をずらして覗く。
「Fater oder nicht? Wer? (父様? ちがうの? 誰?)」
「Ich bin Rudolf. Hast du mich vergessen? (俺はルドルフだ。忘れたのか?)」
「Ich weiss nicht. Wer? (知らないよ。誰?)」
彼の反応にルドルフは軽くため息をついた。
「どうも記憶が混乱しているらしい。医者には診てもらったのか?」
「いいえ。まだよ。今呼んで来る」
そう言うと彼女は部屋を出て行った。

「Vergisst du wirklich alles? Auch Miki? (本当に何もかも忘れてしまったのか? 美樹のことも?)」
「……」
ハンスはベッドの中から男を見上げ、それから手悪さを始めた。ルドルフは別の質問をしてみた。
「Wie alt bist du? (年は幾つだ?)」
「acht. (8才)」
「acht? (8才だって?)」
「Ja. (うん)」
嘘をついているようには見えなかった。
「Kannst du nicht Japanisch sprechen? (日本語は話せないのか?)」
「……できる」
彼はおずおずと答えた。
「ならば何故、日本語で話さない? ここは日本だ」
ルドルフの言葉に彼は唖然として男を見つめた。
「Japan? Warum? (日本? どうして?)」

「おまえは今、日本にいる。そして、美樹の家に住んでいるんだ。わかるか?」
「母様もいっしょに?」
「いいや。おまえだけだ」
「ぼく一人だけ? どうして?」
「おまえは仕事で日本に来た。兄である俺と一緒にな。そして、事故に遭った。それで記憶が曖昧になっているんだ。だが、そのうちにだんだん思い出すだろう」

「ぼく、わかりません。仕事って何ですか? それに、ぼくに兄弟いないです。あなたはどうしてそんな変なことばかり言うですか?」
「今はまだよくわからないのかもしれないが、それが現実だ。それに、美樹はおまえにとって大切な人間だ。彼女を悲しませるようなことはするな」
「大切なの?」
「そう。おまえの宝物だ」
「宝物? 宝物……。美樹はぼくの宝物」
そこへ美樹と医者が入って来た。

「目が覚めたようですね。よかった」
そう言って医者は彼に近づいて脈を取った。
「気分はどうですか? どこか痛いところはありませんか?」
「ないです」
彼は両手でしっかりと毛布を掴むと警戒するように医者から顔を隠して答えた。
「そう。それはよかった。それじゃ、幾つか質問をしてみてもいいですか?」
「はい」

ハンスが日本語の問いに答えているので美樹は小声でルドルフに尋ねた。
「彼、日本語話せるの?」
「ああ。記憶はすっかり子どもの時代に飛んでいるようだが、あれの母親は日本人だからな」
美樹は事情がわかってほっとしたが、医者とのやりとりを聞いているうちにだんだん不安になって来た。ルドルフが言ったように、ハンスはすっかり自分が子どもだと思い込んでいるのだ。年は8才で名前はルートヴィヒ・シュレイダーだと言い、今はドイツの小学校に通っていて、まだ両親が生きていると信じている。恐らくそれが彼にとって一番幸せだった時期なのだろうとルドルフは言った。

(可哀想……)
美樹はそう思ったが、どうしてやることもできない。当面の間は見守ってやることくらいしかないだろう。
しばらくして気持ちが安定すれば記憶が戻るかもしれないと医者が言った。が、可能性としては未知数だとも付け加えた。

「早くお家に帰りたい」
彼が言った。名前に関しては頑として認めないので、当分は彼が主張するようにルートヴィヒの愛称であるルイと呼ぶことにした。
「もう少し我慢してね。お家に帰ってもいいかどうか、ちゃんと検査してもらわないといけないの」
美樹が宥めるように言った。
「母様はいつ迎えに来てくれるの?」
「ごめんね。お母様は今、とても忙しくて、まだ来れないの」
両親が亡くなっていることは、まだ告げないでおこうということになった。彼の精神が落ち着くまでショックを与えない方が良いだろうと医者からアドバイスを受けたからだ。
「ぼく、母様に会いたい……。それに、ドイツのおうちに帰りたい!」
そう言ってルイは泣いた。そんな彼を抱き締めて、美樹がやさしく背中を撫でる。

「ごめんね。でも、少し我慢しようね。日本にだってたくさん楽しいところがあるのよ。退院したら連れて行ってあげるね」
「楽しいところってどこ?」
「そうね、遊園地や動物園、海でも山でも何処にでも……。それに好きなおもちゃも買ってあげる」
「ほんとに?」
「そうよ。だから寂しくないでしょ?」
「うん。それなら、ぼく我慢する。でも……」
「でも?」
ルイはちらと彼女を見上げて言った。
「あのね、今日のおやつはプディングがいいの」
「わかったわ。売店で買って来てあげる」
「ありがとう! ぼくね、プディング大好きなの」
そう言って喜ぶ彼の顔を見ると、美樹もまたうれしくなった。
「美樹も大好き」
ルイはそう言うと彼女の胸に顔を擦りつけた。
「大好き……。美樹も母様と同じにおいがする」

――これ、僕が一番好きな香りなんです

それは以前、ハンスがくれた薔薇の香水だった。好きな香りであれば、刺激を受けて、意識を取り戻すきっかけになるのではと思い、付けていたのだ。
(これってお母さんの香りだったんだ……)
美樹は複雑な思いを抱きながらも、そっと彼の頭を撫でた。

「美樹……。ぼくの宝物……」
「え?」
一瞬、記憶が戻ったのかと思った。が、彼は抱かれたまま気持ち良さそうに寝息を立てている。
「疲れたのね」
そう言うと彼女はそっと彼をベッドに寝かせた。